歴史考
西洋の産業革命による、近代経済の生産と流通の力と通商が、西欧諸国の帝国主義の源流であった。
西欧諸国は原材料を必要とし、自国内の豊富な労働力を背景とした、生産で消費社会を必要とし、さらに大きな原材料の供給と消費の需要先を海外に求めた。
一五世紀中盤から17世紀にかけての大航海時代は、西欧諸国がアジア、アフリカ、アメリカ大陸を収奪を農業経済型の収奪の形で侵攻させ、その原動力になった海軍力と陸軍力はやがて重商主義に代わり、帝国主義に変貌し、現代の型通商スタイルを完成させた。
帝国主義により、列強は通商を求めるようになった。
帝国主義は、通商と、その過程の原料である補給を絶対的に必要とした。
それが開国であり、通商の要求であった。
日本の開国は、アメリカペリーの開国ではじまり、従来からの特権を独占していたオランダの他に、それにイギリス、フランスが続いた。農業経済型のロシアによる開国欲求は前者とは異なる。
攘夷で目覚めた日本の主だった藩は、薩摩は薩英戦争、長州は下関戦争の敗北を経た後積極的な外国文化の吸収をし、やがて幕末の動乱の時期へ入っていく。
同時期、アメリカで南北戦争がおこり、空白が生じた時期に英国、フランス、の商人がビジネスという観点から動乱に深く関わっていった。
二人の死の商人で政治好きの英パークスであり仏ロッシュがいる。
<幕末の動乱と明治維新>第5回~英パークスvs仏ロッシュ
組織的攘夷運動の終わり
幕末日本の政局もいよいよ大詰めです。ここで1863(文久3)年に遡って「日本と列強」の動きを振り返ってみましょう。
63年 | 6月 | 長州藩、下関海峡でアメリカ、フランス、オランダ艦を砲撃 |
7月 | アメリカ、フランス艦が長州砲撃 | |
9月 | 朝廷・長州の攘夷派を追放する「8月18日の政変」 | |
11月 | 尊皇攘夷派の挙兵鎮圧(生野の変) | |
64年 | 6月 | 幕府の池田 筑後守 使節団、パリで横浜鎖港交渉断念 |
7月 | 池田屋事件(新選組が長州藩などの尊攘派志士を襲撃) | |
8月 | 長州藩兵、京都に進軍し幕府軍と交戦( 禁門 の変) 長州藩追討の勅命(第1次長州征討) |
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9月 | 英仏米蘭4国連合艦隊、長州・下関砲台を攻撃し陸戦隊が上陸 | |
12月 | 長州藩、幕府に恭順の意を表す |
この1年半の間、長州や薩摩両藩の「攘夷」に対して、列強各国が武力行使に出ています。これは攘夷行動への「報復」だけでなく、攘夷の不可能なことを「上は帝・大君(将軍)から下は武士・浪人に至るまで思い知らしめる」意図があったことは明らかです。
もともと、長州、薩摩両藩は、自国産品の専売制強化や貿易拡大によって財政を再建し、洋式技術も導入して西国雄藩としての地歩を固めてきました。ところが、攘夷戦争では欧米の軍事力に歯が立ちませんでした。これを機に、両藩ともに攘夷論が急速にしぼみ、日本の組織的な攘夷運動は収束に向かうことになります。
両藩はそれぞれ講和条約を結んだあと、イギリスなど各国に対し積極的な融和策をとり、西洋技術の導入や留学生の派遣に取り組むことになります。
さて、長州藩では65年1月、高杉晋作が、藩庁を握る保守派(門閥派)を打倒するため、奇兵隊など諸隊に決起を促しました。これに伊藤俊輔(のち博文)らが馳せ参じ、正規の藩兵との内戦が始まります。最後は高杉らの急進派(正義派)が勝利し、新体制のリーダーには木戸孝允が就きます。
長州藩は4月、新しい政策として、幕府に恭順の意は示しながらも軍備は強化するという「武備恭順」を藩論として決定します。高杉は「大割拠」という言葉を使って、藩の富強化路線をとります。新軍の指導者には村田蔵六(大村益次郎)が抜擢され、幕府に対抗するために軍備充実を急ぐことになります。
一方、薩英戦争後の薩摩藩では、大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀らが藩の主導権を掌握します。
通商条約の勅許
下関攻撃で攘夷運動に大打撃を与え、賠償金を得たイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国が65年11月4日、計9隻の連合艦隊を編成し、兵庫沖に来航します。
この「砲艦外交」というべき示威行動の狙いは、通商条約の勅許と、兵庫(神戸)の前倒し開港、関税引き下げの実現にありました。
これに先立つ7月、英上海領事のハリー・スミス・パークス(1828~85年)が、イギリス公使・オールコックの後任として長崎に到着。パークスにとっては、条約勅許と兵庫開港が初仕事になりました。
パークスは20年以上中国に滞在経験をもつチャイナ通でした。広東領事の時にはアロー号事件(第2次アヘン戦争)に遭遇し、占領責任者として中国側と対決。北京で投獄されて死に直面する体験をしています。「人一倍豪毅で、疲れを知らない精励家」というのは、部下だったアーネスト・サトウのパークス評で、まさに百戦錬磨の外交官でした。
このパークスらの要求を受けて問題処理に当たったのが、家茂と将軍の座をめぐって争って敗れた徳川慶喜でした。当時は禁裏(御所)御守衛総督をつとめていました。
兵庫開港問題で慶喜は、朝廷会議の開催を求め、開港も条約勅許も拒否すれば、京都が攻められ、日本は属国になるかもしれないなどと、脅しも交えて公家たちを説き伏せました。
65年11月22日、孝明天皇が「条約は勅許、開港は不可」との断を下します。攘夷主義者の天皇にしてみれば、足元の兵庫に横浜のような居留地が作られ、英仏の軍隊が駐留する事態だけは避けたかったとみられています。
パークスは、幕府負担となった、長州による下関攻撃の賠償金支払いの延期と、兵庫開港の延期を認める代わりに、関税のルール変更を日本側に認めさせ、条約の不平等を拡大させました。
「一会桑」のパワー
これらの外交問題と並行して起きていたのが、「朝敵」である長州をもう一度懲らしめようとする「第2次長州征討」です。
65年7月、将軍・家茂が征伐に向けて上京・参内しましたが、「長の措置(長州追討)は衆議を遂げて言上せよ」との勅語が伝えられるにとどまりました。多くの藩は、軍費(財政)負担の増大などを嫌って再征に否定的でした。
しかし11月9日、慶喜は、京都守護職・松平容保(会津藩主)と京都所司代・松平定敬(桑名藩主、容保の実弟)とともに参内して再征を要請、勅許(天皇の許可)を得ます。慶喜はこの時、「我々、『一会桑』は辞める」などと辞職をほのめかしながら、半ば強引に勅許を得たといわれます。
そもそも「一会桑」は、「一橋」(慶喜)、「会津」(容保)、「桑名」(定敬)の頭文字からとったものです。文久3年の「8月18日の政変」の後、朝廷首脳部と「参与」諸侯(松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、慶喜、容保、島津久光)による合議体制が生まれましたが、ほとんど機能しませんでした。そのあと、「禁門の変」で力をふるった「一会桑」が天皇の信任を得て、朝廷を支配するようになったのです。
この慶喜主導の長州再征勅許に対して、薩摩藩士の大久保利通らが強く反発します。3家老を切腹させて謝罪した長州を追討するのはおかしい、これは「非議(正義でない)の勅命」である、と主張したのです。大久保は再考を求めましたが覆らず、もはや「朝廷これかぎり」と言い放ったといわれます。
薩摩藩は、第1次長州征討では幕府側についていました。それが第2次征討では、「幕府と長州の『私戦』」(西郷隆盛)にすぎないとして、反対に回ります。ここに、幕末政局のライバルとして、とくに「禁門の変」では戦火を交えた薩摩藩と長州藩が、相互接近することになるのです。
幕府内に親仏派
幕末期、アメリカが南北戦争に追いまくられるなかで、アヘン戦争、クリミア戦争を終えたイギリスが、対日外交の主導権をとります。
イギリスとの戦争のあと、親英・開国路線をとった薩摩藩は、特定の開港地の居留地貿易と幕府による独占貿易に強い不満をもっていました。
イギリスの初代公使のオールコックは、幕府との関係は維持しながらも、貿易拡大の主張に耳を傾け、薩摩・長州の開国派との距離を縮めます。
後任のパークスもこれを継承しますが、そのパークスと張り合うことになるのが、64年4月に着任したフランス公使のレオン・ロッシュ(1809~1901年)でした。
ロッシュは、回想録の中で、フランス革命でジロンド派の女王といわれたロラン夫人の娘が自分の「名付け親」で、それが「私の運命に大きな影響」をあたえたと記しています(小島英記著『幕末維新を動かした8人の外国人』(東洋経済新報社)。彼は、30余年にわたって北アフリカやアラブ世界で軍人・外交官を務め、文字通り、型破りな経歴の人物だったようです。
薩摩藩がイギリスに接近したのに対して、幕府側はロッシュを頼りにし、ロッシュもイギリスに協力的だった前任者の方針を転換、独自の立場をとるようになります。この英仏対立の背景には、自由貿易主義のイギリスと、幕府の独占貿易で利潤を上げようとするフランスとの、貿易政策をめぐる対立がありました。
幕府内部には、小栗忠順(1827~68年)や栗本鋤雲らを中心に親仏派が形成されます。小栗は、幕府の外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行などを歴任した逸材で、歩兵奉行のとき陸軍部隊を率いて朝廷に開国和親の勅旨を強要するためのクーデター未遂事件を起こしています。
兵制改革や軍備の充実が急務と考えていた小栗は、製鉄所(造船所)の建設に取り組み、64年からロッシュとの交渉にあたりました。フランスの軍港をモデルにした製鉄所建設工事は、のちの横須賀軍港につながります。
幕府のフランス接近は、これにとどまりません。銅製施条カノン砲16門の製造をロッシュに依頼、この大砲は66年の長州再征の直前に届いて幕府側を喜ばせました。
こうして幕府の親仏派は、フランスからの軍事援助をあてにしながら長州藩打倒をはかろうとした形で、勝海舟は「フランスは飢えた狼、イギリスは飢えた虎」とみられる以上、幕仏接近は危険だと警鐘を鳴らしていました。それだけ当時の幕府のフランス依存は、国家独立の観点から危うく見えたのかもしれません。
トマス・グラバー
これに対して長州藩も、幕府との戦争に備えて新兵器を渇望していました。ところが、英仏米蘭の4か国は、長・幕戦にあたっては厳正中立と密貿易の禁止を申し合わせ、長州は武器購入が困難になります。
そこで木戸孝允は、イギリス貿易商のトマス・グラバー(1838~1911年)に相談します。武器の売り込み先がほしいグラバーは、「長州の船で上海へ行って買うなら差し支えない」などとアドバイスします。
このとき、長州の窮地を救ったのが薩摩藩でした。長州征討には参加しないことにした薩摩藩は、同藩名義で外国から武器を購入して、これを長州に回すことにしました。土佐藩浪士の坂本龍馬が仲介にあたり、長州藩の伊藤博文と井上馨が、長崎で薩摩藩の小松帯刀に要請して決まりました。
グラバーが調達したミネー銃4300挺、ゲベール銃3000挺が、薩摩の船によって長州に運び込まれました。このほか、汽船も、まず薩摩が購入して長州に譲渡されました。グラバーは井上らに対して「100万ドルぐらいの金はいつでも用立てる」と語ったといわれます。
グラバーは、今も長崎港を眺望できる観光スポット、グラバー邸の主でした。ここでは「グラバーの生涯」を副題とした杉山伸也著『明治維新とイギリス商人』をもとにグラバーについて紹介します。
彼はスコットランド生まれのイギリス人で、59年9月、長崎にやってきました。当時は、日本開港や蒸気船による定期航路の開設によって、対日貿易が活発化し、多数の欧米貿易商が来日。グラバーもその一人でした。貿易商社の下働きから、まもなく独立して「グラバー商会」を設立、茶の輸出や艦船の取引を始めました。
「死の商人」「政治好き」
ちょうど62年、幕府が海防強化の観点から諸藩に外国船の購入を許可し、船の需要が高まる時期でした。同書によると、グラバーが64年から5年間に手がけた艦船の売却は、薩摩・熊本・佐賀・長州藩などのほか幕府相手も含め計24隻、168万ドルにも上りました。
日本の武器・弾薬類の輸入は65年以降、増加しました。中には、戦いが終わったばかりのアメリカの南北戦争(61~65年)で使われた小銃も流れ込んでいました。当然、グラバーも武器・弾薬類を扱っており、薩摩藩名義の長州藩との取引はその代表例です。
その一方、グラバーは65年、幕府から、薩英戦争で威力をみせつけたアームストロング砲計35門の注文を受けるなど、したたかなビジネスを展開していました。このあたりが「死の商人」と称せられるゆえんかもしれません。
ただ、グラバーは懇意の五代友厚らが進めた薩摩藩留学生の密航について便宜供与をはかったほか、パークスと薩摩との橋渡しもしています。さらに佐賀藩とともに高島炭鉱の開発に乗り出しますが、1870年、商会は資金難から倒産してしまいます。後年、グラバーは、「徳川政府の反逆人の中では、自分がもっとも大きな反逆人だと思った」と語っていますが、この「政治好き」のイギリス商人が幕末政局で果たした役割は無視できないものがありました。
【主な参考・引用文献】
▽佐々木克『幕末史』(ちくま新書)▽井上勝生『幕末・維新』(岩波新書)▽石井孝『明治維新の舞台裏』(岩波新書)▽同『増訂 明治維新の国際的環境』(吉川弘文館)▽小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』(中公文庫)▽杉山伸也『明治維新とイギリス商人』(岩波新書)▽家近良樹『江戸幕府崩壊』(講談社学術文庫)